みちのくより愛をこめて 0007

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「座敷わらしのいる宿」として知られていた旅館「緑風荘」が5月14日、営業を再開

 「座敷わらしのいる宿」として知られ、2009年に火災で全焼した岩手県二戸市の旅館「緑風荘」が5月14日、営業を再開した。寄付金も活用して再建し、初日は火災当日の宿泊客を招待。約6年半ぶりの開業を祝った。


 緑風荘は江戸時代に建てられた伝統的な「南部曲がり家」を利用した旅館。座敷わらしの目撃情報が多く寄せられ、全国から宿泊客が訪れたが、09年10月に母屋が全焼、宿の看板と座敷わらしを祭る神社だけが残った。

 

 再建のため自己資金とファンの寄付金に加え、投資を募るファンドを創設。約3億円かけて木造の建物を完成させた。


★緑風荘
緑風荘(りょくふうそう)は、岩手県二戸市金田一の温泉郷にある旅館。及び通信販売「有限会社 えんじゅ」、「株式会社 座敷わらし」を運営している。その他、ファンクラブ真白乃会事務局、亀麿神社(わらし神社)管理・維持。

宿泊のほか日帰り入浴も可能。低張性弱アルカリ低温泉。単純温泉(ラジウム温泉)。300年以上前、南部藩の湯治場だったことから「侍の湯」と呼ばれていた。

●概要

日本を代表する座敷わらしの出没する宿として地位を保ち続けている。

座敷わらしの名前は亀麿(かめまろ)と呼ばれ、宿では物の怪としてではなく先祖の守り神(精霊)として同施設内に亀麿神社(わらし神社)をつくり祀っている。ご神体は水晶で例大祭は毎年9月28日に行われる。

館内は芸能人との記念写真やゆかりの品、ぬいぐるみであふれている。今日まで多くの著名人が宿泊し、昨今でも幅広いメディアで取り上げられている。

本館と別館で構成され本館母屋の奥座敷「槐(えんじゅ)の間」に座敷わらしの目撃例が多く文化人・著名人が多く宿泊することで有名だが、「槐の間」は人気が高く、1週間の予約期間、一気に3年間の予約を電話のみで受け付けるため予約は大変困難だった。 毎回、受付開始数日間は電話が殺到するため回線障害が発生していた。

新館(別館)は予約なしで宿泊できることが多い。「槐の間」だけでなく館内いたるところでの目撃例が多く、新館の部屋にも姿を見せることもある。座敷わらしのほうから人を選ぶといわれ、必ずしも「槐の間」に出現するわけではない。

宿泊以外に「槐の間」見学も可能で、全国からお供えの品などを奉納する方も多い。しかし「槐の間」の宿泊客がチェックインが早くアウトも遅いといった場合、容易に見学はできず、あくまでも「槐の間」宿泊客が食事などで不在の際に公開されていた。巨大なぬいぐるみを奉納する非常識な方もいたためぬいぐるみの奉納は禁止する方針に転換した。

なお、2009年(平成21年)10月4日に起きた火事で、座敷わらしを祀る中庭の亀麿神社以外が全焼。従業員・宿泊客は全員無事だったが、営業停止状態となった。2016年5月14日より営業を再開。

●緑風荘における座敷わらし伝承

1300年(南北朝時代)、南朝の武将が[8]北朝(足利尊氏)方との戦いに敗れ落武者となり大和国(現・奈良県)から武蔵国五日市(現・東京都あきる野市)に落ち延びこの地名を苗字とした。しかし、この地は関東の勢力範囲内でそこから更に陸奥国(金田一)に落ち延びる。この時6歳と4歳の男の子がおり、金田一までの旅路で兄の亀麿(かめまろ)は病にかかり死去する。死の床で「末代まで家を守り続ける」と言い息を引き取った。

この亀麿の霊が奥座敷「槐の間」に棲みつき「家の守り神」となり、時々客人に姿を見せたり悪戯をするようになったと言い伝えられている。この部屋に泊まり座敷わらしに出会えると驚くほどの幸運に恵まれ男は出世し、女は玉の輿にのると一般的に言われている。

●沿革
1600年代頃 - 五日市家は南部藩とのつながりが強く、長い間庄屋として村の代表的な存在で農業で生計を立てていた。
1910年(明治43年) - 日本ではじめてオカルトブームとなる。民間伝承をまとめた柳田國男の『遠野物語』が発表された。これをきっかけに座敷わらしの存在が全国に知られるようになる。五日市家の座敷わらしも注目されたが、地元だけに限られた。
1940年代 - 村の名主の曲り家に座敷わらしがいると当時から噂されており第二次世界大戦に徴兵された多くの若者が無事帰還を願い訪れる。
1947年(昭和22年) - 地元の大地主で大勢の下働きを雇い長らく農業を営んでいたが、農地改革により農地を手放す。
1950年(昭和25年) - 五日市家により創業。
1955年(昭和30年) - 五日市家により「緑風荘」開業。
1971年(昭和46年) - 作家の三浦哲郎が緑風荘の座敷わらしをテーマに児童小説『ユタとふしぎな仲間たち』を発表。のちに浅利慶太の演出で劇団四季が演劇に。1970年代のオカルトブームも重なり、緑風荘の名は一躍全国に知られるようになる。
1980年代 「怪奇現象」・「心霊現象」・「超常現象」をテーマとしたテレビ番組や雑誌で度々取り上げられる。1980年代は心霊写真、心霊映像のブームであり緑風荘の怪奇現象は大きく取り上げられていた。
この頃から芸能人の宿泊ラッシュとなる。

2002年(平成14年) - ウェブサイト開設。
2008年(平成20年) - 帰属団体により亀麿会設立。ネットアクセス増加に伴いサイトリニューアル。不思議体験を自由に書き込み交流できる掲示板など大幅に改編される。
2009年(平成21年) 日本の文化や伝統、芸能、学校行事を世界に紹介している外務省キッズWebJapanにて海外向けに座敷わらしが出る宿として紹介される。
10月4日午後8時半頃に発生した火災により、中庭の座敷わらしを祀った祠を残して全焼。

2010年(平成22年) 焼け跡の源泉から足湯を建設し無料開放する。
再建の募金・寄付が1千万円近く集まる。(劇団四季も2014年「ユタと不思議な仲間たち」を上演したのが縁で100万円の寄付をしている)
新緑風荘再建計画がまとまる。

2011年(平成23年) - 株式会社 座敷わらしを設立(社名変更)。座敷わらしファンクラブのネーミングを変えて(緑風荘わらしファミリー真白乃会)を新たに発足。
2012年(平成24年) - 真白乃会と考え方の違いから帰属団体の亀麿会が解散分離。一部の人達により私設的な有料会員制コミュニティーとして活動を継続する。
2013年(平成25年) - 3年前に発表されていた新緑風荘再建計画を資金不足から白紙撤回。
2014年(平成26年) - ミュージックセキュリティーズにより少額投資ファンドとして個人投資家と地方銀行から不足額を調達。
2015年(平成27年) - 新築費用を含む総事業費約3億円の調達が遅延していたが9/28地鎮祭。10月に着工。
2016年(平成28年) - 5月に営業再開。4月1日からネット予約限定で受付け開始(営業強化方針のため個人向けファンドを3口以上購入した場合のみ優先予約)。

●幸福に恵まれた代表的人物とエピソード

原敬(第19代内閣総理大臣) - 東北遊説の際に宿泊。その後、総理大臣就任。
米内光政(第37代内閣総理大臣) - 宿泊後に総理大臣就任。海軍大臣や聯合艦隊司令長官を歴任。
福田赳夫(第67代内閣総理大臣) - 総理大臣に就任。福田康夫(第91代)も訪れたと言われている。
田子一民(第33代衆議院議長) - 座敷わらしに出会い政治家として出世。
三船久蔵(武道家) -「槐の間」で座敷わらしと組み合いあしらわれたという。
本田宗一郎(本田技研工業創業者) - バイクでツーリング中に宿泊。その後事業拡大。
松下幸之助(パナソニック創業者) - 事業を世界規模に展開。
稲盛和夫(実業家) - 宿泊後に事業建て直しに成功。
金田一京助(作家) - 学者・作家として出世する。緑風荘に度々訪れ五日市家と交流があった。
三浦哲郎(作家) - 緑風荘で感じたインスピレーションによりヒット作品を世に出す。
遠藤周作(作家)- 館内で座敷わらしに遭遇し、その出会いを作品に描いている。
水木しげる(漫画家)- 「槐の間」での座敷わらしとの出会いを雑誌で詳細に述べている。
つのだじろう(心霊研究家)- 緑風荘に奉納した座敷わらしの絵に描かれた眼球がTV放映中に動いたことで話題になる。
水戸泉政人(元大相撲力士)- 「槐の間」宿泊後、1992年(平成4年)7月場所幕内優勝。
風見しんご (タレント) - ブレイクダンスを取り入れた歌が大ヒット当時の流行となった。
ゆず(音楽グループ) - ストリートミュージシャンからメジャーデビュー。
岩手県立福岡高等学校女子ソフトボール部 - 槐の間で優勝祈願。全国優勝を果たす。
五日市栄一(第25代緑風荘当主)- 座敷わらしに出会い第二次世界大戦の徴兵を逃れる。

よくある不思議体験

槐の間に限らず、客室を撮影するとオーブが写ることが多いとされる。
客室に奉納されている玩具(槐の間に限らない)のうち、発条で動くものは、誰も触っていない(発条を巻いていない)にも関わらず、夜中に勝手に動くことがあるとされる。
宿泊客が睡眠中金縛りにあう。髪を引っ張るなどいたずらをされる。深夜、廊下や枕元で走り回る足音が聞こえる。布団の上に乗ってくる。