みちのくより愛をこめて 0007

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“円空仏の微笑”大勢を魅了 福島県立美術館 4月5日の閉幕まで残り3週間

円空仏の微笑”大勢を魅了 県立美術館にぎわう

 
 福島市の県立美術館で開催中の福島民友新聞創刊120周年記念事業東日本大震災復興支援特別展「飛騨の円空―千光寺とその周辺の足跡」は15日、4月5日の閉幕まで残り3週間となり、天候に恵まれたこともあって大勢でにぎわい、来場者が円空仏の魅力を堪能しています。

県立美術館、福島民友新聞社、飛騨千光寺(岐阜県高山市)でつくる実行委の主催。

御用とお急ぎでない方はぜひお立ち寄りください。

モナリザの微笑みに匹敵するぐらい思わず笑みがこぼれます。


  

福島民友120周年事業   

 福島民友新聞社は、創刊120周年記念事業として県立美術館、飛騨千光寺と共催し、東日本大震災復興支援・特別展「飛騨の円空―千光寺とその周辺の足跡」を2015年1月27日から福島市の県立美術館で開催しています。
  同展では、生涯に12万体もの仏像を彫ったといわれる江戸前期の僧・円空の名作「両面宿儺坐像(りょうめんすくなざぞう)」や「金剛力士(仁王)立像」をはじめ飛騨千光寺所蔵の円空仏を中心に、岐阜県高山市所在の約100体を展示中です。庶民に寄り添った円空の慈愛あふれる仏像が心のやすらぎを届けています。

 県立美術館で100体を展示中 


■会期 2015年1月27日(火)~4月5日(日) 
 
■会場 県立美術館(福島市森合字西養山1)
  
■開館時間 午前9時30分~午後5時(最終入館は午後4時30分)
■休館日 毎週月曜日
 
■観覧料 (当日券)一般1000円、大学生900円、高校生以下無料。団体割引あり(20人以上、1人800円)
 
 
 ★円空(えんくう、寛永9年(1632年) - 元禄8年7月15日(1695年8月24日))は、江戸時代前期の木食僧(廻国僧)・仏師・歌人。特に、全国に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。

円空は生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5350体発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は三重県奈良県までおよぶ。多くは寺社、個人所蔵がほとんどである。

その中でも、岐阜県、愛知県をはじめとする各地には、円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されている。その内愛知県内で3000体以上、岐阜県内で1000体以上を数える。また、北海道、東北に残るものは初期像が多く、岐阜県飛騨地方には後期像が多い。多作だが作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。円空仏以外にも、多くの和歌や大般若経の扉絵なども残されている。
 
 生涯
美濃国(現岐阜県)の生まれ。羽島市生まれ説と郡上市美並町(旧美並村)生まれ説の2つが提唱されているが、円空学会理事長の長谷川公茂や梅原猛らの考察によって羽島との説が有力である。
寛文6年(1663年)1月、津軽藩の弘前城下を追われる。その後、青森経由で蝦夷地の松前に渡ったことが知られる。太田山神社をはじめ道南の各地を廻り、多くの仏像を彫る。
寛文9年(1669年)頃、尾張・美濃の地方に戻っていたことが在銘の諸像によって知られる。
寛文11年(1671年)、大和国法隆寺に住していた巡堯春塘より法相宗の血脈を受ける。
延宝7年(1679年)、近江国園城寺に住していた尊永より仏性常住金剛宝戒の血脈を受ける。
延宝8年(1680年)頃、関東に滞在しており、上野国貫前神社で『大般若経』を読誦する。
貞享元年(1684年)、再び美濃に戻り、荒子観音寺の住持であった円盛より天台円頓菩薩戒の血脈を受ける。
元禄2年(1689年)、円空が再興した美濃国関の弥勒寺が、天台宗寺門派総本山の園城寺の山内にあった霊鷲院兼日光院の末寺となる。
元禄8年(1695年)、門弟の円長に対して授決集最秘師資相承の血脈を授け、7月15日(8月24日)に自坊の弥勒寺の近辺で寂す。

§円空仏の特徴
円空仏はデザインが簡素化されており、ゴツゴツとした野性味に溢れながらも不可思議な微笑をたたえていることが特徴で、一刀彫という独特の彫りが円空仏の個性を引き立てている。一刀彫というのは鉈一本で彫り出した事に由来するが、実際には多数の彫刻刀によって丹念に彫られており、鉈で荒削りで彫ったに過ぎないというのはただの宣伝である。

円空としては民衆が気軽に拝める、現代で言えば量産型の仏像として製作し、野に置かれる事を望んでいたのだが、そのデザインが芸術的に高く評価されたため、大寺院で秘仏扱いされる事もあった。

§円空と木喰
円空から後代の木喰も同様に日本各地で造仏活動を行っており、ノミ痕の残った鋭い円空仏に対し、表面を滑らかに加工し、後年には柔和で穏やかな表情を有した「木喰仏(微笑仏)」は円空仏と対比されている。

木喰は甲斐国出身の木食僧で、安永7年(1778年)に蝦夷地を訪れ、同地において造像活動を開始したとされる。木喰は同年7月にニ海郡八雲町の門昌庵を訪れており諸像を残している(初期の木喰仏)。

門昌庵を訪れた安永7年の『納経帳』の存在から、木喰が太田権現を訪れ円空仏を実見して造像活動を開始したとする説もあるが、木喰が円空円空仏に直接した史料は残されていない。一方で、2004年の調査で初期の木喰仏は木喰とともに蝦夷地を廻国した弟子の木食白道の作例であることが判明し、白道は『木食白導一代記』において円空に直接言及していないが、太田権現で多くの仏を見たと記している。

また、木喰は蝦夷地廻国以降も多数の円空仏が残されている岐阜県高山市丹生川町真言宗寺院・千光寺を訪れているが、確実に円空仏を見た記録は残されておらず、円空と木喰の廻国ルートは重ならず、円空仏と木喰仏の分布も異なっていることが指摘されている。

§その他
円空は、伊吹山太平寺で修行を積んだといわれる。また遊行僧として全国を巡り、山岳修験道の行者であった。大峯山で修行したことをはじめ、北海道の有珠山、飛騨の御嶽山乗鞍岳穂高岳などにも登拝した。

国道41号の下呂市門原地内の深谷の谷に沿って山道を1.7kmほど行くと、山中に高さ約17m、横・奥行ともに約27mの巨岩がある。大岩の下は、幅約2m、高さ約1m、三畳敷き程の岩陰となっている。円空下呂を訪れた際、この岩陰に寝泊りし、多くの仏像を彫った場所といわれ、土地の人からは「円空岩」と呼ばれている。